亀山郁夫+佐藤優/文春新書/787円
佐藤○ケノーシスをわれわれの言葉で翻訳するなら、むしろ「開き直り」に近いでしょうね。「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」「上着を奪うものには下着も与えよ」という一見謙虚なキリストの言葉も、裏を返せば、「やれるものならやってみろ」という開き直りと解釈した方がわかりやすい。
佐藤○ソルジェニーツィン「どのようにしてわれわれはロシアを再建するか」(『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』1990)……1990年にこの提言を行なった直後にロシアに帰国すれば、ソルジェニーツィンは、政局で大きな影響を与えたと思います。……体制転換による経済、社会的混乱でロシア人にとって最も困難な時期に、ソルジェニーツィンがロシアの地で祖国の人々と苦難を共有しなかったため、帰国後、ソルジェニーツィンは、ロシアの政治エリート、インテリ双方に対する影響力をほとんど失ってしまいました。
亀山○じつは、長期の在外研修として初めてモスクワの科学アカデミー世界文学研究所に留学した際、スパイ容疑でつかまったことがあるんです。1984年の出来事ですから、ゴルバチョフが登場する前の年です。……スパイ容疑で拘束されて以来、国境というのが、じつはトラウマになってしまった。今でも、ロシアを出るときが怖くて仕方ないんです。
佐藤○亀山先生がドストエフスキーを論じるときに「父殺し」にこだわるのも、それと同じところがあるのではないでしょうか。
亀山○たしかに、長い間、父を憎んでいたような気がするんです。父は家で暴君としてふるまい、母とのケンカが絶えず、暗い家庭でした。そこから逃れるために、本や音楽に没頭していました。思い返すとほんとうに笑い出しそうなくらいに文学青年でしたね。
亀山○『カラマーゾフの兄弟』は高校3年生になって読んだんですが、とても苦しかった。……ただ、あのとき、「父殺し」という言葉に、煽情的というか、エロティックというのか、そう、ポルノグラフィックな想像力をかき立てられた記憶があるんです。それくらい「父殺し」というテーマはショッキングだった。
亀山○ドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『群盗』……ドストエフスキーが10歳で『群盗』の劇を観たときに受けたショックの核心について言及していた人はだれもいません。『群盗』に潜む「父殺し」のテーマが、父親との得体の知れない葛藤を抱えるドストエフスキーにいかにショックを与えたか。そして、このテーマがどのような形でドストエフスキーの文学に刻み込まれているのか。ぼくにそれがわかったのは、父に対して屈折した感情を持っていたからでしょうね。
佐藤○キリストの花嫁は「見えない教会」です。そして洗礼を受けようが受けまいが、神の目から見ると、われわれ人間はみな、キリストと教会の子供となります。
それでは、キリストを殺したのは誰ですか。人間です。子供である人間が、父であるキリストを殺した。つまり、キリスト教には「父親殺し」が埋め込まれているのです。
佐藤○権力者は権力の弱さを分かっているものです。もし民衆や知識人が一丸となってボイコットをすれば、権力はあっという間に瓦解します。
亀山○ゴルバチョフは「弱い父」だったんですね。
佐藤○それで、ゴルバチョフは最終的にみんなから憎まれましたよね。
佐藤○宗教に限らず、人間は「物語」を必要とする動物です。
佐藤○実際の政治も稚拙で乱暴な物語で動くようになってしまった。その結果、日本の国家的、社会的な地位も落っこちてしまいました。一方で、ロシアではプーチンが物語の回復を行なってきた。中国でも胡錦濤国家主席が「科学的発展観」という形で物語の回復を行なっている。
佐藤○モスクワ総主教庁が、1961年から年1回出していた『神学論集』は、一般には「反ソ文献」として、輸入や閲覧が認められない文献で埋め尽くされていました。ところが、チェコのカトリック教会は体制との妥協を拒んだ挙句、いまや無神論者が国民の多数を占めるまでになってしまった。
佐藤○ロシアの反体制派の特徴は、カネに潔癖なことです。権力はカネの問題をきっかけに事件を作ってくることを分かっているから、自前で活動資金をつくる。そうやって社会と妥協し共犯関係を結びながら、ロシアの内部から影響を与えていく。
一方、チェコの異論派知識人は、価値観を共有する西側の支援者からカネをもらうことについて、特にやましいという感じをもたない。そして、現実に存在する社会主義政権との共犯関係は結ばないという原則で、異論派知識人だけの「きれいな領域」に閉じこもるから、現実に影響を与えない。
佐藤○ロシア人の心理感覚に「中庸」はありません。
亀山○記号学者のロトマンも、ロシアは〇と一の二進法だと言っていますね。
佐藤○ロシアがコンピュータ開発に強いのもうなずけます。
佐藤○ロシアが強大化しているという議論が近年出ていますが、その奥には軍事大国としての「魂」、文化の「魂」、宗教的な「魂」などの復権への自覚と努力があるからです。
佐藤○作家・坂東眞砂子さんの『死国』など、日本語の小説で面白いと思うものがあればすぐにロシア語に訳される。
佐藤○権力というものがくせ者で、そこには魔物が潜んでいるのです。潜んでいるというよりも、自分の内部にこの魔物を飼っていかなくては、政治家にはなれないということなのだと思います。そして、この魔物を飼っている人たちが独自の磁場を作り出すのです。ここでは永遠に戦いが続きます。仏教の用語を借りるならばこれは阿修羅道です。
亀山○旋毛虫の夢……情報もまた、人間を不可逆的に破壊していく恐ろしい旋毛虫だと思っています。ところが、ドストエフスキーは、この病原体に傲慢という名を与えました。
佐藤○カネですべての価値を測る新自由主義を既にロシアは拒否しました。物質に対しては、基本的に精神が勝利したのだと思います。この精神力によって、ロシア経済は回復したのです。